島崎清大「ただ、生活。」

その日暮らしGt.Vo.島崎清大の日記。的な。文学かぶれ。

その日暮らし

 

10年前、

いない いない ばあ というバンドを解散して数ヶ月経った際、なんらかの人性補欠のイベントを見に行き、SR自販機前、当時灰皿のところ、ライブハウスで、たまに見かけるパーマ頭の男が、「いないいないばあの子じゃん。バンド辞めたんでしょ?もうバンドやらんの?」と声をかけてきた。飄々とした男の溌剌とした声だった。「メンバーがいないんよね。あ、やる?」と100%の冗談で問うた。「え、やる」

引くほどの二つ返事だった。ギターが弾けると言うから、ルートベースぐらいなら弾けるだろってな具合で、お願いして、バンドを組むことにした。コベタカスミ、結婚おめでとう。

 

ドラムは大分に住んでいた同級生タケマサヤにお願いした。その当時は鹿児島に受け入れてもらうことは諦めていた。

 

俺はコミックバンドを組むぞ。と息巻いていた。

彼と出会った数日後にインフルエンザに感染し、40度超えの発熱で寝込んでいた。意識朦朧としながら、新しいバンドの曲を作らねば。と思い、ギターを手にしたら、何と3曲、一瞬でできた。

 

五月雨心中,阿呆学生,股間口。の順だった。コミックバンドを組むことは勝手に諦め、その3曲をもって、完治後、2人を集めスタジオに入った。コベタカスミは全くベースが弾けていなかった。でも、何だかとても優しい男なので、取り敢えず続けてみることにして、ライブをしようにも、鹿児島でライブ決めてもらえず、宮崎に住むあびに、彼の福岡でのライブに無理矢理捻じ込んでもらえないかとお願いしたのを覚えている。

 

初ライブは10年前の福岡四次元。その次の日に福岡ビブレ。その何ヶ月も福岡に通い続けたような気がする。タケマサヤは大分だったので、何かと都合も良かったのを覚えている。

 

タケマサヤはジャズをやる。と、コベタカスミはDJになる、と順に去っていった。

 

そこからは数えきれぬ人達に、

多大な迷惑をかけながら、何度もメンバーが入りは辞め、を繰り返した。

約6年前フクドメ、オオコシが辞めた時に、もうこれ以上はいいか。と思い、解散宣言でも出そうかなと、でも、売れてもないのにわざわざ解散宣言なんて、恥ずかしいよな、なんて考えてるうちに、安藤太珠の夢を見た日がある。

 

安藤太珠は、その日暮らしの、それまでの、ほぼ全てのライブに足を運んでくれていた。TwitterのDMで予約お願いします。とだけ連絡をくれ、終電が間に合わないか何かで、毎回、ありがとうございました。とだけ伝えて、帰る変な大学生の男の子であった。でも、なぜか彼の夢を見たので、急にDMで飲みに行こうと誘ってみた。さしたら、快く返事をくれ、飲みに行ってみた。飲みに行く前からバンドに誘おうかなと思ってはいた。

僕は確か3,40分待った。年下なのに無礼な男だと思っていた。遅れてきた彼は席に着くや否や、ニタリ顔で「清大さんって鬱なんすか?笑」と問うてきた。

 

当時の僕は、自分が鬱であると認識しておらず、何だこいつ。と思いはしたが、なんか愛くるしい男だと。そして、多分彼は僕に何も臆せずバンドをしてくれるだろうと思い、バンドに誘ってみた。彼は嬉しそうにしてくれた。が直後「僕が清大さんとバンドをするならば、僕は清大さんには、今の清大さんを変えてほしいです。技術は勿論、メンバーが辞めていった理由などを見直してほしい」と言うようなことを伝えられた。僕は気付いたら泣いていた。彼は僕がダメでも辞めないだろうから、ダメなままでは良くないなと思った。安藤太珠。良い男である。

 

それから太珠と2人だけのバンド生活が始まる。色んなとこに出向きドラムを探すものの、どうしても見つからず、やることもないので、曲を作るのもそこそこで、グルーブを高めることから始めようなどと抜かし、2人で釣りに行ったり、プールに行って泳ぎまくったり、公園でただただ話したり、でもやっぱり最後にはへべれけになるまで飲んでみたり。なんじゃこれ。と流石に青春を浪費しすぎている。音楽をせねば。と、僕の人生初ライブからのお付き合い、袰谷にサポートドラムをお願いできないかと。何度も頼み込んだ末、RECも県外ライブも無理を言って、付き合ってもらい、沢山の物を得た。本当にありがとう。君がいなければ、ほとんどの曲は生まれていなかったよ。

 

そこから正式ドラマーを探さねば、いよいよ、袰谷にも申し訳が立たない。甘え続けてる場合ではない。と振り出しに戻る。いつかのウォークインフェスにて、そんな僕らを見かねた、BACKSKiD Dr.LOVE一郎さんが、こいつドラムしてて、バンドしたいらしいよ。と田舎者のガリガリの坊主が少し伸びたようなガキンチョを紹介してくれた。一言もものを言わぬ、その少年に、僕らはペコリと頭を下げて、その日暮らし見たことある?と尋ねた。

 

「ありません、満身って曲だけ知ってます」

 

ああ、そう。とその場を去った。

何も起きず、その数ヶ月後、志布志ダグリ岬遊園地で、ライブイベントがあると聞いたので、先輩や友人たちと遊びに出かけた。ぷぷぷを観てる最中だったか、フェスで会った少年が、たまたま隣に立っていた。髪はだいぶ伸びていた。

 

しこたま酔っていた俺は、その日暮らしを知らぬ彼に、お前はバンドをやった方がいい。いい目をしてるからなと何度も擦り込んだ。

日は暮れて、S.O.L.での打ち上げでまた彼と遭遇した。彼はウィスキーを気で飲んでいた。お前は何をしてるんだと。隣にある炭酸水で割ってハイボールで飲みなさいと僕は留意した。彼は「ハイボールってなんですか」と聞いてきた。

衝撃を受け、満身しか知らぬ彼を必死にバンドに誘った。ベロベロな俺たちは、今日から俺らは義兄弟だ!と叫びながら兄弟盃を交わしたのだった。緋田俊太。あけまると呼んでくださいと言われ、嫌です。と伝えた。

よかれわるかれ、純粋無垢、著しい成長は俺ら以外が気付いている。緋田俊太。

 

確か、同じタイミングぐらいで、元ジェットマンズGt.の女、が精神を病んでるとの噂を聞きつけ、何だか知らんけど、確かお茶かなんかした気がする。思ったより元気そうな彼女に、僕はその日暮らしの諸々のデザインを手伝ってもらっていた。その時間の中、この子おもろいなぁ。と思い、お金少し払うから、その日暮らしの色々手伝っておくれよ。と言うと、また彼女も嬉しそうに、私でよければ。と言ってくれた。お金はしばらく払われなかった。が、最近は、生き甲斐だとすら、僕らに言ってくれた。あずまはな。ありがとう。お互い、だいぶ健康体になれたな。

 

その日暮らしの歴史を9割近く端折って羅列してみた。10周年の実感などなく、そして、いつものようなライブ前日の緊張感すらないので、書き起こしてみるか。となったが、2700文字前までと、何の変化も起きず。

 

だが、端折った歴史は、僕の心に死ぬことなく轟々と燃えていて、少し涙は溢れそうだ。

 

人々の悲しみや憎しみを、俺は全てを包んで、感謝という感情や言葉で纏めてはいるが、それで本当に正しいのだろうか。昔のメンバーを思えば思うほど。

 

だが、歓喜や喜びも産んでこれた実感も、正直、驚くほどある。お客さんや先輩後輩友だちの顔を思い出せば思い出すほど。

 

日付まわり、

今日のワンマンが終わらないと、

俺はどうしても、

ここから先には進めないのだろう。

 

全ての答えを、今の俺たちで、

約1時間に、確実に宿さんとし、

歓喜や悲哀、全てを取りに行く。

 

駄文極まりないが、

読んでくれて、ありがとう。

 

2022/10/22 SR HALL

The Under For The Over -10-

その日暮らし ワンマン

 

宜しくお願い致します。f:id:s-seidai0509:20221022041715j:image
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