島崎清大「ただ、生活。」

その日暮らしGt.Vo.島崎清大の日記。的な。文学かぶれ。

山之口本通、ファミマ前。

山之口本通、ファミマ。

街をうろつく、ホームレス。

あいつはきっと、

この街の色んな顔を知っている。

 


昨夜、行われた友達の式。

飛んできたブーケの行方。

受け取る未来の行方までは

きっと、誰も興味はない。

 


夜が深まり、街灯が消えていく。

裏腹に静けさが訪れるわけではなく、

コンビニの前で立ち尽くす僕と、

外国人労働者を笑う酔いどれ。

 


嬢の帰りを待つドライバー、

アイドリングストップなんて

この街では誰も知らない。

誰も誰かの知ったことではない。

 


赤のマルボロ、黒のレクサス。

青のロンT、黒いハイヒール。

ピンクのパンチラ、緑のネオン。

コントラストの狭間。

着実に悪い流れは近づいている。

背後から、そろりそろりと近付いてきていることには、

もうとっくに気がついている。

踏ん張りどころ、踏ん張りどころ、と思っていたら、

足に力入りすぎて減り込んで、膝はガクガク。


誰にどう伝えていいか、言葉も見つからず、

況してや、解決に向かう気もせず、脳は冴えて、

目も冴えて、メモもさえて、

全てを、アイマスクで閉じ込めようとも、

光が消えない。闇が強すぎると光の度合いも増して、

コントラストの狭間で、狼狽え、そして、唸る。6:30になると蝉が一斉に鳴き出す。

アイマスクの隙間から光が差し込み、

パンパンに膨れ上がった膀胱とトイレに駆け込み、

アレはあの時、あの人を傷つけたのかもなぁ、とか、

もう一層の事、全て消し去って、何処かへ。とか、

不毛を超えることはない不毛な独り言と、脳内会議。

便所で流した涙は便所で流し、朝になりすぎた朝、

たばこを一本、深く吸い込み、強く消し、天井と会話。

またこの心情と、この光景か。

何からなのか、誰からなのか分からんが、

ここで逃げちゃダメだよな。と追い込みながら、

追いかけられちゃって、笑いも出ない。


蝉より煩い自己顕示欲、

季節より早い心情旅行、

夕立より強い生活の怠惰。


夏は決まってこうだ。

「66'」


もう、どうなったって、構わない。

泣いても、吐いても、朝は来るのさ。

過去の所為にして。


もう、どうなったって、構わない?

触れども、触れども、君は去るのか。

僕の所為にして。


もう少しだけ側に居たいな。胸も痛いな。

ああ、また日は暮れるのか。笑っちゃうよね。


もう、どうなったって、構わない。

飛ぶのも、刺すのも、変わらないのさ。

決まって朝は来るのさ。諦めてさ。


「ふわり、ふわりと、水面に浮かぶ。

過去の波紋、光を魅せて。

そろり、そろりと、未来に映る。

綺麗ね。声が聞こえた。」


さよならさ。輝く明日。

疲れたろ。結んで開いて。

さよならさ。全てを介して。

遠のく言葉、まだ見ぬ明日。

 

さよならさ。さよならだ。

魚類

人の死や天災に酷く鈍感なのは、

是迄の生い立ちが大きく作用してるのではないだろうか。

幼少の時、大好きだった祖父が死んだのが最後。

涙を上手く流せなかったり、上手に悲しめない自分に、

余計に悲しくなったりする。


当事者意識という言葉に惑わされたり、

タイミングを得れない自分に苛ついたりして。

ここまで羅列した感情の幾つかも、

純な気持ちなのかは分からない。


でも、その全ての根源が、詰まる所、

純だったならば、どうなるだろう。

非現実の深海をを夢中で泳いでいたら、

現実という陸に上がった瞬間に、

呼吸がし辛くなったり。


しかし、人間。

上手く笑ったり、上手く悲しんだり、

できたり、できなかったり。

つまり、人間。


両生類になりたかったのに。

魚類では、この現実の陸では息ができない。

27

正直、薄々、分かっている。

俺はきっと何者でもなくて、

何者にもなれないということを。

 


蛙の子は蛙、その蛙大海を知らず。

そのまま海に投げ出されてしまって、

何処へも行けぬまま、気付いたら沼の中。

 


傷つけて来た人の顔ばかりが思い出されて、

借りた金の額、指折り、とっくに指は足りない。

指差して笑っていた奴の顔ばかり思い出されて、

夕暮れより早く沈みゆく心。

 


悲しい時に悲しい歌を聴くのがいいよね。

そんな中途半端会話と惰性の愛で、とか言っちゃって、

俺もう幾つなんだよ。

 


ロックスターの次は文豪で、文豪の先は何だ。

綺麗なお嫁さんの次は、毎日大変な専業主婦。

その次は何だよ。

 


エモいとか青いとか、ロックとかパンクとか、

馬鹿みたいな日本語ばかりに侵食されちゃって、

行き当たった場所で、生き詰まり、行き止まり。

 


でも、人の期待ぐらいは、覚えていたいしね。

そんな感じで、また次の日へ。

音の鳴る素材。

一個を得ると、一個を損失する。それは何が故でもなく、自分のせいで、容量不足や器量不足が露呈されてしまう。そこでの発言や失念が怖いので、生活の中に於ける音の鳴るアイテムを点けることでしか自分を惑わすことしかできない。奮わせることは無論、ゼロ。疲れてるんだ、落ち込んでるんだ、優しくできないんだ。もう、そんなことを発言してる余裕もないんだ。

ぼくたち。から半年。

深く眠れずに、夢うつつ、身体は動かないが、脳が動き続け、しかし、心と脳は一体化していないから、どちらかが優位に立つと、どちらかが不利になっていくのが摂理ってもので、どんどんと呼吸が乱れて、全てが完全なる不一致を迎え、それは悪夢となり、懐古、懐古のシューリンガンポンポコピーポンポコナーの、チョウキョウメイノチョウスケって具合に、未練がましく記憶力が行きすぎた僕は、過呼吸になり、泣きながら、手探りで薬を探して、口に放り込んだのが昨日。

 

その前日、現実すぎる現実、最早、悪夢でもいいから夢であってくれ、ぐらいの現実、元寇も真っ青レベルの襲来。しかしながら、そんなものは、その程度だって分かってて生きていたわけで。言い訳のように肌を求める感覚とか、酒を煽る日々とか、どうしても家から出れない一日とか、晴れ渡る空の下、桜並木を両手で受け止める日とか、そう、言い訳がましく、見て見ぬ振りして生きてきたのが、この数カ月で。でも、僕、たまたま感受性が豊かで、そこに関わってくれる人達に囲まれてるお陰で、なんとなく全ては、確固とした優しさや厳しさを持って、現実よりも現実として過ごせていたので、それを歌詞にしたり、ここに書いたり、圧倒的、音圧に変えてみたりして、それたちは、より明確な愛に満ち溢れた現実味を帯びた日々を過ごすことができている。

 

去年の11月末に「ぼくたち。」というブログを書いている。半年後の今、あれに勝る文章も感性もなくて、そこに尽きるとすら思っているので、もしお時間あれば読み返してみてください。やっぱり、そうだよな、僕たち。っていう次第です。

 

愚直で憐憫に甘んじてきた僕なんかに、易々と愛や幸せが訪れるわけはないので、また省みて、逃げずに生きていく他ないのです。でも、僕も人間なので、どうしても儚いのです。

 

今度こそはね、必ず、幸、多からんことを。