島崎清大「ただ、生活。」

その日暮らしGt.Vo.島崎清大の日記。的な。文学かぶれ。

ミサイルが飛んだらしい。8.29

 

病院に行く毎に、薬が変わっては、

比例して寝つきも寝起きも変わる。

 

合う、合わないの噛み合わせがつくまで、

続くのだが、酷くキツいことで、

躁鬱の波が1日の間に何往復も起こるので、

薬も強くなっていけば行くほど、

ドンドンと意識が朦朧とした状態で、

生活を送っている。

 

何月何日何曜日がわからなかったり、

突然、肩が震え出しては止まらなくなったり、

気付いてないうちに家の物の配置が変わってたり、

朝起きたら、食器が二、三枚割れてたり、

日々、散々な毎日ですが。

 

僕はそれと共に生活しなければならぬ。

 

その生活の中で、

やはり朦朧としてるが故、

忘れて行くことが多い。

だから、僕はTwitterInstagramFacebooksoundcloudもブログもやっている。書いている。そして、敢えて、その様を出来る限り公表している。大抵のものはアプリ同士で連携を取りシェアというやつをしている。

 

其処にも収めきれない、

載せることができない感情などは

随筆としてノートに、ほぼ毎日、手記している。

1ページ目は遺言だ。いつか僕が死んだら、見つけて、誰かに出版してほしい。感情の波で酷く荒れ模様のページもあれば、記憶のない謎の絵まで書かれてる時もある。俺は敢えて読み返していない。

 

精神世界で生きてる今、僕は、とても様々なことを考えている。僕は此処で論理や持論などを公表したくて書いているわけではない。

 

馬鹿な頭が、もっと馬鹿にならないように文字に起こす。読書が趣味なのだが、不感症が酷さを増していて、何の芸術も入ってこないので、本も読めなくなり、テレビもつけず、映画も見ず、漫画も読めない状態になった今、僕は或ることを決めた。

 

インプットできないなら、

只管にアウトプットしていくしかないのだ。

 

でも、絵も見にいくし、音楽だって聞く、入ってくるか否かは別として、そこで思うのは内面ではなく、そのアーティスト達の側面である。

 

やはり、美しいものは美しい。

出来ることが極限まで減ってきている今、僕はアーティストになりたいと思った。バンドマンではなく、精神世界の中、論理や哲学なんかかんやより、広い視野で野を見渡し、この壮大なる野のような感情がやってくる日を待っていてはいけない、手にしていかなきゃいけないのだ。それの一部が手記であったりSNSであったり音楽であるだけ。

 

現実世界では出来ないことが増えてるにも関わらず

精神世界では意外と簡単だな。と思うことが増えた。僕も美しくなりたいから。散る花は美しい。咲く花も美しいが散るまでな過程も散る最中も美しいのだ。

 

朝から15秒しか見ないTwitterで、

ミサイルという言葉を沢山みた。

北朝鮮から日本を超えていった。というような話を知り合いが耳にしたが、大した感情もなかった。

 

次来る震災と北朝鮮のことは考えても答えが出ない。

 

でも、思ったことは1つ。

俺らは生きているのではない。

たまたま死んでないだけなんだ。

死ぬために産まれた。なんて言葉も、神への信仰なども大して思うことはないのだけれど、

何の因果か俺らは偶々、生きてるだけ。

運良く、生き延ばされているだけ。

 

だから、調子に乗ってはいけないのだ。と思った。こんな日々の中でも僕は自分のことができなくても、隣人の1人か2人でも愛したいと思った。憎しみもある。ないわけはない。

 

これからは色々と減らしていく旅なのだ。

と決意した日があったのだ。

修行だと思い、色んなことをアーティストとして成立させ、我の強いカブト虫のような俺でも、少しでも誰かを無我で愛せるようになりますように、暫くは生きてみようと思います。

 

違っても、それは美しくないわけはないし、

また別の美しさを探す他ない。

 

ミサイルが飛んでも、プレートが揺れても、

さっき自転車でコケて、血が出てしまっている小指が一番、痛いのだ。情けなくも正直に小指が一番、痛い。そんな儚さや嘆きを

 

それを分け合う場所はきっとあるはず。

馴れ合うのではない、確実に。

 

似たような奴に似たような答えを与えるのも俺はしない。決めた。

 

Think より Feel で居たいんだ僕。