島崎清大「ただ、生活。」

その日暮らしGt.Vo.島崎清大の日記。的な。文学かぶれ。

孤独 と 一人 と 皆 と 一人称。


彼女と別れ、僕は何が変わったかと言ったら、
余計、物を食べれなくなったし、
薬の種類が一切合切、変わった。

それは彼女と別れ、乱れて、というわけでもなく、
ある日から勝手に自ら乱れ、そのタイミングで、
彼女とも、もう「互いに互いだな」となった。だけの話である。

そこから、僕は孤独って言葉と一人って言葉について、
馬鹿だから、またもや論理的に考え出してしまった。

孤独は多分、どこまでいっても、
誰といても、いつでも孤独は孤独。

その孤独を癒す為にというか、
柔らかくする為に、他人がいる。

他人という言葉のニュアンスと
孤独という言葉のニュアンスは似ている。きがする。

他人と混ざり合うと、
多分、それは孤独から、
一人 という言葉に呼び方が変わる。

そしたら、僕、君、お前、あなた、私、
という風に一人称が増える。

さしたら、それはもう一人ではなく、
みんなになっている。

素敵なことだと思った。
どんな場でもだ。
行きたくないバイト先でも、
嫌いな上司や先輩や友達でも、
人間は孤独にはなりきれないのだ。

だが、しかし、
僕は生まれてこの方、生粋の、
寂しがりやで、夜が夜になる程、
僕はドンドン孤独ってやつに
飲み込まれて行く気配がする。

孤独じゃないってわかってるのに、
孤独だよ、お前は。と冷静に肩を叩いてくる奴がいる。
多分、俺の中の俺だろう。幼少期のお前だろう?

知ってんだよな。お前の思考もルールもプロセスもよ。もう好い加減予想じゃないか。と、毎晩、そいつと悶着を重ねる。疲れ果てる。こっぴどく心労である。それのゴールは所謂、鬱って呼ばれるモノに属してくる。

それを毎晩、毎晩、繰り返し、
最近なんて特に酷く、誰かと会わなかった日や話さなかった日なんて62時間ぐらい目覚めっぱなしで、その大半の僕からの視線はコーヒー牛乳とタバコと天井と壁だったりする。

経ってから自分の愚かさに萎えて、疲れ果ててることに気付き意識を失うように眠り、何月何日の何時なのか分からない状態で目覚め、さして、体調も具合の悪さも尋常ではない。

僕、一人で、思った。
やっぱり寂しいものは寂しいな。と。

このブログの記事を遡って読んでみると、

僕は大丈夫だ。今の人達がいて、今の場所があれば幼少期以上の悲しみはやって来ないだろうと。手記している、確かに。


全くもって、その通りだと、今日、振り返って思った。
しかし、1つ違うんだ、今と。

確かに、大丈夫だ。
僕は人に力を沢山、貰っているし、
それに応えようと、もう暫く生きてみよう。と、
心に決めた。いつまでかは分からぬけど。

でもさ、もう良くないか。とも思った。
孤独にも一人にも慣れる必要もないんじゃない?と
思った。3歳ぐらいから、放任主義、悪く言えば育児放棄状態で育った私、そりゃ寂しがりや、な訳ないじゃないですか。まぁ知らない人多いから、しゃあないし、何を意気揚々とこんな事を書いてるんだ、この馬鹿は。状態に自分で今、気付きましたけれども。

孤独になれる必要も、
寂しいを隠す必要も、
その為たちの、
なんていうか
道化というか、
虚勢だったりって、
もういいんじゃないの、私。

もういいよね?今の僕も幼少のお前も。

素直に、純粋に。に変更ですよ。
他者に迷惑かけない程度でね。


外は雨降り模様。急いで洗濯物を取り込んだ。
四畳半の家にポツリとアイフォンと僕。
畳まれずに置かれたままの洗濯物達。

これを畳み終わったら寝よう。
一人。寂しく寝よう。

ソフレ。という存在の意義が分かった。
以上。