島崎清大「ただ、生活。」

その日暮らしGt.Vo.島崎清大の日記。的な。文学かぶれ。

今の為の、今迄だったのだね。

今年、25歳。
1番、古い記憶は3歳。
理由は分からなかったが、
名字が変わったことと、サンタさんの鈴の音の
幻聴を聞いた事、タイヨー銀座店近くのアパートに住んでいて、夜中、いつの間にか消えた親を泣きながら、天文館中を探し回った記憶。

強く鮮烈に残ってる記憶。
朝、目覚めたら、両親が家にいなく、
妹の号泣の声で目覚め、リビングに行くと、
乳飲み子の妹は腹を空かし、その年では絶対に手の届かない所にあるチョコレートを手にし、口の周り、チョコレートでグチャグチャにしながら、ママー、ママー、と泣き叫んでた姿。僕も涙止まらなくなってギュッと抱きしめた記憶。未だに夢に見るし、大人になっても誰かが一緒に寝てて、その人が起きたら怖くなって、目覚めて、何処に行くの?と聞いてしまうぐらいのトラウマ。(絶景の歌詞の「泣いてた、妹。」はこの記憶から。)

僕は母が嫌いだった。
貧乏だったのだろうけど、
見栄っ張りで貧乏とは思わなかった幼少期。
でも、僕に対する態度は母親というより女性。
女性というより女。なんで私は女なのに私の気持ちがわからないの。あなた男でしょ。僕が言うのも悪い気がするけど、
身持ちも悪く、男を見る目もなかったし、すぐヒステリーを起こし、己の全てを正当化する天才。認識は、女性。僕の人生で1番、嫌いな女性という認識。でも、生かされた。

その人が僕に残した言葉。残ってる言葉が2つ。

●貴方は優しい。だから、きっと良い旦那さんになれる。だから、自分が好きな人にはずっと優しくいなさいね。

●貴方は詐欺師だ。だから、これからもずっと、人を騙していきて行くに違いない。あんたの本当の父親と何も変わらない。(先ず会ったこともない父親)

その2つの言葉は鮮烈に僕の思春期に強く残り、卑屈で、何かに誰かに後ろめたい気持ちが消えないまま、今まで生きてきた。発達やらアスペやらあだ名がついた。ある程度の常識や、たまに会う祖母か、テレビで培った。料理番組とNHK「ひとりでできるもん」とボキャブラ天国内村プロデュース、ワンナイロックンロールと、深夜枠のはねるの扉。

反抗したことは一度もなかった、
高校を辞めるときに、バンドをして行く。
勘当する。勝手にしてくれ。今までの鬱憤、憎しみ、悲しみを全て伝えてしまった。向こうがバレてないと思ってたことも俺は知っていて、それも上げ足を取るように気づいてるんだぞ。なぜ、俺が音楽に救いを求めてるか考えろ。と叫んだ。ヒステリーな母親は家中のものを投げまくった。俺はそれを拾って、叩きつけたり、蹴り割ったり、全てを破壊した。16歳だった。家を出た。居候して、バイトを始めた。世間も常識も行儀も何も知らない僕を、バイト先とバンド界の大人たちは威圧的ながらも教えてくれた。俺は常識を知らないことも知らなかった。相当、勘違いしていて生意気で口だけ達者で、詐欺師だから、別に嫌われる前に嫌われに行ってやるわ。

けど、音楽と純文学だけは僕を裏切らなかった。逃避させてくれた。のめり込める。一瞬で、その人に慣れる。

僕はトラウマが極端に多い。チョコレートが食えなかったのも、睡眠障害になったのも、人の家、実家、家庭が嫌いだったのも原因がある。

発達、発達。と呼ばれだした。
仲の良い人は僕を病気として扱ってくれていた。
それに慣れすぎていて、性格なのか本当にそうなのかの境目は俺には分からなかった。

17歳になり、まだ詐欺師感覚が強い俺は、1つのものを追い求め始めた。母性、女性だった。けれど、1番の強いイメージは母親で元々、人を馬鹿にしがちな性格な上、女性にはそれが色濃く出て、しかも人との距離感の取り方はテレビも他人も教えてくれなかった。メンヘラと呼ばれた。メンヘラと呼ばれる人が集まった。僕は乳が好きだった。母性の具現化されたものが乳だと未だに思っている。

沢山の人と交際した。セックスもした。
10代、寂しかった。とにかく。誰でも良かった。
そのぶん、ひたすらに女性を傷つけた。
そして、得意の逃げグセで逃げ回った。
悪い噂はすぐ広まる。干された。怒られた。殴られた。

みんなもしてるくせに。しか思ってなかった。
19歳になり、セックスに飽きた。虚しさしか残らなかった。しっかりとした恋愛もできなかった。しかし、19歳から4年半付き合った彼女がいて、変な女の子で、凄く傷付けたし、僕も困惑に困惑を重ね、もう普通が普通ではなくなり、その子が僕の常識となった。けど、セックスレスもあり、病を抱えた彼女に僕はどうする事もできず、酷く冷たく当たり続け、彼女は僕に、唯一無二でないなら。と問われた。違う。と答えた。別れた。洒落にならないぐらいの酷い事をしたのに、彼女は僕に有難うという手紙を泣きながらポケットに入れ、僕はそれを振り返らず、別れた。

次の恋愛は、歳下だった。僕も駄目なくせに、僕はその子のダメな事を変えてほしいと願ったし、話しあう度、泣かせ傷つけた。その度、僕は鬱になり、仕事に行かなくなり、ひたすら布団で寝ていた。彼女はそれを何も言わず、見ていた。働いていた。募る罪悪感。死のうとしたり、急に消えたりを繰り返した。彼女は最後まで僕を心配してくれた。けど、僕はまだ変わってほしいと願い続け、言い続け、でも、僕も生活は変えれなかったが、思想は変わり続けた。その子のお陰も無論、強く、変なパワーに溢れる時期、周囲の仲間入りをした。

僕はそこで出会った。初めての浮気をしてしまった。
家に帰らなくなり、バイト先や先輩の家や、その浮気相手の車で寝ていた。彼女からラインがきた。いつ振るんですか?

何ヶ月ぶりかに対面して、話したい事を話したわ向こうは全てに気づいていたにも関わらず、泣き続けるだけで、僕に何も言わなかった。言えなかったのだろう。悲しすぎて。その子は今、幸せの最中だろう。

僕と別れた女性はみんな次の男性と本当に長く続く。それを知るたびに、俺はどれだけ酷い奴だったんだろう。と振り返るが時、すでに遅し。けど、僕は母性を探し続けた。両親にとにかく愛されて生きてきた人が好きだった。もう母性が知らぬうちに備わってるからだ。

俺のイメージは最悪なのに、人伝で聞いた面白いらしい俺の人生を聞きたいという興味本位で飲みに誘ってきた女の子がいた。僕はその子と飲んだ。鉄板ネタみたいな僕の過去や家庭の話をした。

人生で初めて爆笑してくれた女性だった。僕が引くほど笑われた。一瞬だった。そして、その子は感覚が鋭く、僕には無い感覚しか持ち合わせてなかった。僕の嫌いな、実家という場所にも連れてってくれた。僕の人生の答えあわせが始まったし、僕が知らなかった事、怖くて見て見ぬ振りしてきた全てに、提言や苦言を与え、僕はその子の為にと。今までより強く思った。嫌っていたワード、家庭、将来、幸せ、子供。というワードを恥かしげもなく、その子とは徐々に話せるようになった。

しかし、人生わからないもので、プレッシャーからなのか、単に僕の容量不足なのかわからないけど心身を壊した。普通にできてたことができなくなった。その子の将来設計、僕の目標が一気に崩れだした。今までに無いほどの自己破棄精神が強くなり続ける数ヶ月。互いに構えなくなって、互いに無理をしていった。僕は考えた。優しさとは。気遣いとは。愛とは。大切とは。無事とは。けど、病気云々、元よりある性格も病気にかまけ、自分の中でテンヤワンヤにした。

そこで沢山の大人達が僕に少しずつ常識やヒントやキッカケを教えてくれた。様々な場所で、様々な形で。

僕はその子と別れた。理由は、まだ今は書けない。
でも、またいつか書くのであろう。

本当にその人の大切さがわかったときに。

本当に勝手なことかも知れないし、本人達が読んでたら怒り狂うかも知れないけど、僕は今になって、19歳から付き合ってくれた人たちの別れ際の思いや僕への考慮や優しさに気付けました。口ばかり達者でマトモに大切にしてあげられなかったのに、こんなこと言うのも申し訳ないけど、

良い意味でも悪い意味でも、
今の為の今迄だったのか。
と思い続けています。感謝しています。



変えられないものも大切にできるように、
変わっていくしかないのだと思いました。

出来る限り、1人の、己の力で。


申し訳ない。に他の感情が勝ったことは女性は特に人にも感じたことがない。感謝があっても、凄い勢いで罪悪感がそれを追いかけてくる。


けど、みんな共通して、僕に教えてくれたことは、僕が知らなかったことを教えてくれたことでした。これも様々な形で、様々な場所で、様々な表現で。


今のこの気持ちを僕は文にできないけど、
本当にありがとうございました。


生きれる限り生きてみます。



3人、19歳までの沢山の女性達も、どうか幸せに。僕も誰かを幸せにできる人間になれるよう努めます。


本当に、有難うございました。