島崎清大「ただ、生活。」

その日暮らしGt.Vo.島崎清大の日記。的な。文学かぶれ。

梅雨への恐怖。

 

今日は珍しく僕にしては1人で、

そして、外で活動した。最近は、

洋楽を聴いている。声というものに、

鬱陶しさを感じる気がして、日本語だと

直接的すぎるなと、今の僕の日常ではね。

日頃はそんな事はない。

 

洋楽は英語の歌詞、そんなに分からないけれど、

音は気持ち良いし、日本語で精神を駆り立てられる事もないので、より、曲に対して集中できるし、逆に全く無の感情で聴いて、街の音を掻き消す道具としても使える。だから、洋楽はいい。

 

声、は怖いが、文字は怖くない時期に入り、

テレビもラジオも映像も喧騒も不安な僕は、

深く読書や漫画に傾倒しだした日々です。

 

帰宅後、炊事洗濯、家事料理を済ました僕は

今、時間を持て余してる。

 

太宰治ヴィヨンの妻

古谷実サルチネスを読み直し、

最近の自分の環境や感情が的確にハマってしまい、

うーむ。と深く考えてしまい、

考えきれてないということに、

深く落ち込んでしまった。

 

優しさとは何か?と考えた。

各々の容量、度量とあるだろうから、

其処まで強く断言はできないが、

僕の中では、その過程までは行き着いた。

 

まず許容は優しさだろうか。

許容は相手を傷付けないし

許容されてる事にすら相手は気付いていないかもしれない。

 

許容は当人からしたら、その殆どは我慢であり、無理をしてる状態である。パンパンに膨らんだ風船はどんな硬さのものでも先が尖ってさえいれば、いとも簡単に破裂する。

 

破裂した時には時、既に遅し。

爆発は多大な力を生み、互いに傷つく。

許容されてたと気付いていなければ尚更。

 

優しさも愛も限度を超えたら迷惑になる。

迷惑とは暴力にも憎しみにも悲しみにも呆れにも様々な形へと変化していきます。

 

だからと言って、押し黙る様に、

相手に介入しない様にしても、

疑念、不安は当人には付き纏います。

 

それを感じてしまうのも相手です。

 

あくまで他人で、あくまで他人事のはずなのに、

どうしようも1人では纏めきれず、

2人の物差しで測りながら、生活していくのが、

恋愛です。いつだって、折り合いが大事なのです。

 

恋愛程度なら、やはり飽くまで自分の人生が1番だと考えるのが普通だと僕は思います。そこで話し合いが行われず、僕の場合は、他人の人生に介入してしまい、何かを汚してしまった気がします。しかもマトモな人間なら未だしも、漠然とした不安に毎日、襲われては、何もできず、かまけてる様にしか見られず、甘んじてるのではないかという罪悪感が残るばかりです。

 

僕は優しさも許容も押し黙ることもできてないのだろうか。と昨夜から考えてました。朝になれば落ち着くだろうと必死に眠りに就こうとしたが眠れず、漠然は巨大化していくばかりで、1人の話ではなく、2人の話なので、より罪悪感はネガティヴを量産し続け、僕を飲み込もうとします。

 

僕は急いで結論してしまいます。

何故でしょうか。

それはもう僕の人生が他人の人生にとって邪魔になってる気がしてならないからです。

助けてもらったりして、感謝と大切を大丈夫を覚えたはずなのに、たった1人の一言で僕の中は一変してしまいました。

巻き込んでしまってるのではないかと。

その人の人生には不必要な部分なのではないかと思わざるを得ないのです。その根源はどこからでしょうか。

 

ゆっくり考えて、落ち着きな。

再スタートなんて何時でも切れるさ。と。

言ってくれる人達は多い。

 

そう思うし、そう思えないのだ。

再スタートはどこにある。

再スタートは始まってるかもしれない。

再スタートを見失ったかもしれない。

その時点で僕は君を見失ってるも同然でしょう。

 

大量に作ってしまったポトフは腐るのでしょう。

 

今日で5月が終わり、全てが終わり始める気がしてます。ステージやスタジオだとそんなことは思わないのに。

 

梅雨の時期がやってきます。

僕は不安です。梅雨が苦手なのです。

まだ歳月に追いつけてないのです。

 

友達に嘘をつきました。

 

きっと、大丈夫さ俺とお前も。と。

 

本当は

自分が大丈夫じゃないから、

口にしたのです。

 

その日を終える言葉が

それしか言葉が見当たらなかったのです。

 

酷く無様でした。