島崎清大「ただ、生活。」

その日暮らしGt.Vo.島崎清大の日記。的な。文学かぶれ。

ぼくたち。から半年。

深く眠れずに、夢うつつ、身体は動かないが、脳が動き続け、しかし、心と脳は一体化していないから、どちらかが優位に立つと、どちらかが不利になっていくのが摂理ってもので、どんどんと呼吸が乱れて、全てが完全なる不一致を迎え、それは悪夢となり、懐古、懐古のシューリンガンポンポコピーポンポコナーの、チョウキョウメイノチョウスケって具合に、未練がましく記憶力が行きすぎた僕は、過呼吸になり、泣きながら、手探りで薬を探して、口に放り込んだのが昨日。

 

その前日、現実すぎる現実、最早、悪夢でもいいから夢であってくれ、ぐらいの現実、元寇も真っ青レベルの襲来。しかしながら、そんなものは、その程度だって分かってて生きていたわけで。言い訳のように肌を求める感覚とか、酒を煽る日々とか、どうしても家から出れない一日とか、晴れ渡る空の下、桜並木を両手で受け止める日とか、そう、言い訳がましく、見て見ぬ振りして生きてきたのが、この数カ月で。でも、僕、たまたま感受性が豊かで、そこに関わってくれる人達に囲まれてるお陰で、なんとなく全ては、確固とした優しさや厳しさを持って、現実よりも現実として過ごせていたので、それを歌詞にしたり、ここに書いたり、圧倒的、音圧に変えてみたりして、それたちは、より明確な愛に満ち溢れた現実味を帯びた日々を過ごすことができている。

 

去年の11月末に「ぼくたち。」というブログを書いている。半年後の今、あれに勝る文章も感性もなくて、そこに尽きるとすら思っているので、もしお時間あれば読み返してみてください。やっぱり、そうだよな、僕たち。っていう次第です。

 

愚直で憐憫に甘んじてきた僕なんかに、易々と愛や幸せが訪れるわけはないので、また省みて、逃げずに生きていく他ないのです。でも、僕も人間なので、どうしても儚いのです。

 

今度こそはね、必ず、幸、多からんことを。