島崎清大「ただ、生活。」

その日暮らしGt.Vo.島崎清大の日記。的な。文学かぶれ。

誕生日サプライズ理論。

 

人々の人並みの、感動や感傷が、

如何程のモノなのか一も分からないどころか、

然程、興味もないのだけれど、

先日、記述した通り、俄然、他人事になっていく

世間や、その周りの人々。

 

その中で誰かの何かに感動したり、

敢えて取りに行った芸術の諸々を受け入れたり、

大層、好きだったアーティストを観たりしても、

どうにも感動も感傷もイマイチ持てない。

 

が、人と会い、会話をしたら、自然と不覚にも、

感情は弾むし、堕ちて行ってた心を拾い上げられる。

 

その中で、その人の言葉1つに感動はしないけれど、その人自身が、僕に対して真意に向きあってくれてる現実や、その言葉を発しようとしてくれた過程に僕は感動してることに気づいた。一通りあった昨夜に結論した。

 

例えば、僕は明日、誕生日。知人達から飲みに誘われ、その瞬間、僕は打算的にもサプライズか何かしらで祝われることだろうと期待する。その飲み会始まり、おっちょこちょいな奴が、俺にサプライズを悟られたとする。そこで俺はそれに気付かぬふりをして場は進行されていく。いよいよ、念願?のサプライズタイムがやってきていた。そこで俺は何を言うか、何を思うかはわからないけれど、もしかしたら、驚いたふりだってするかもしれない。が、そんなものはもう、どうだっていいのだ。サプライズが行われてることもバレたあいつの馬鹿さだってどうでもいいのだ。

 

何故か。

それはもう過程である。

 

その知人らが時間と金を使い場を設け、俺1人の為に画策したその過程が何よりものプレゼントなのだと思う。

 

彼女が作ってきてくれた弁当自体の美味しさや、メンバーが頭捻って作ってきたフレーズの巧妙さや、童貞が初デートに着てきた服装のダサさ、そんなものは少しだけどうでもいいのだ。

 

一番、愛すべき場所は、きっと、そいつが、それに向き合っていた時間なのだと思う。

 

薬のせいなのか鬱のせいなのか分からないが、

より不感症になっていく心情の中で、僕は人に感動したし、人を愛した。より愛そう、寄り合いをしようと思った。そんな昨日だった。

 

チャットモンチーを見た感動より

チャットモンチーを見て感動してる君を見て感動したんだ、俺は。