島崎清大「ただ、生活。」

その日暮らしGt.Vo.島崎清大の日記。的な。文学かぶれ。

誕生日の友人が2人、子供の日。

 

世間はGWという真面目に生きてる

正社員という名の尊敬すべき人たち、

しかも、そこそこのしっかりした勤め所ならば、

本当にゴールデンなウィークで、

遠出したり、日々の中、できなかったことを、

取り戻している人もいることだろう。

 

逆にサービス業と言われる職業や、

本当は働きたくない若いバンドマン達は、

なにがゴールデンウィークじゃい。と、

腹を立てているかもしれないし、

ゴールデンウィークが来た、こりゃ稼ぎ時や!

と、袖まくりして鼻息荒げてる人もおるかもしれない。

 

ということを毎日がゴールデンウィークみたいな

状態の俺が馬鹿みたいに偉そうに記しているのも、

気にくわないね、全く。僕自身がそうだから、

読者もきっと同じ要領だろうね。

 

でも、今日は子供の日。5月5日。

今日、誕生日の大好きな僕の友人が2人もいる。

23歳になる男と25歳になる男だ。

どちらも、もう長い付き合いになる。

まだそんなに長く生きてないのに、

長い付き合いってことは、僕としては、

とても濃い付き合いってことになる。

 

 

●ここからはあくまで、

僕の人生の経験則や周囲を見渡しての見解、

大好きな大人達から頂いた言葉の咀嚼物、つまり、

超持論になります故、若造が何を偉そうに、など、

憤慨する方もいらっしゃるかもしれません。

 

しかも人間、みんな、別。人それぞれ、

個人差。って言葉を使うと、面白みがないので、

それは度外視しましょうよ、互いに今日だけ。

 

僕もまだ24年間しか生きてきてないので、

その中で貰った言葉、気付いたことだけを

記してるだけなので、ご注意ください。

 

●賛否両論あるでしょう、そりゃ。

賛も否もコメントより会った際、又は電話、

sonohigurashi2015@gmail.com宛の

個人的連絡で頂けたら幸いです。

※できるだけ、優しい言葉尻で、お願いします。

 

 

●23歳。

18-22歳ぐらいまでは大体の人がマージナルマンだ。

思春期を経て青年期に突入し、短大に行くか

大学に行くか、専門学校か、

それか目的の為にどんな形であれ働き出すか。

 

友人だった人々も様々な場所へ行き、

様々な方向性へと変わって行く。

 

ある程度の教育過程を終え、

厨二病高二病やら思春期を終えたものの、

しかし、それらの名残の物事や人々への多感期や、

心中の悶々や、性欲だけは、グイグイと、伸びて行く。今までとは少し勝手が違うからだ。

 

だから、22歳は問題が多発し、

それを、思案したり、

論理づけようとしたり、悩みが沢山だ。

もうこの世の終わりだ。と思う回数も、きっと、

生涯の中でも最も多いのではないだろうか。

 

●それを終え、23歳-24歳になると、

マージナルマンを経て青年期に突入する。

 

抱えていた問題、悩み、闇が、ふとした瞬間、

解け出したり、明るみに出たりする。

それは思考しまくったからだ。と自信になる。

(男女差とかもあるだろうが今回は✖︎)

だから、とても、調子付いて行く。

しかし、厄が訪れる。

(私個人的には厄とか迷信とかジンクスとか超信じる。)

 

まぁ。厄のせいなのか、なんなのか、

自分ではどうしようもない事件や問題も多発する。

そこで気づく、俺の持って来た自信なんて、

役に立たんのではないかと落ち込む。

 

そこで気付く。

こりゃ人の力を借りねばならん。

打算的だろうが純な感情だろうが、

人の力を必要とすることが、頻繁に増える。

 

そこで人の大切さを思い知り、

独りの難しさに気付かされる。

だから、傷つけたことにも敏感になり、

人の気持ちに気付けるようになったり、

自分らより歳上の方たちの話を、

本当の意味で聞けるようになる。

納得までも今までより早くなる。

尊敬の念も強くなる。感謝だ。と。

昔、嫌いだった大人が言ってた言葉すらも、

ある日、合点したりすることさえ、ある。

 

25歳に突入する友人。

僕と同じような人種で、

目的の為に、数々の物を蔑ろにしてきたり、

やはり受け皿が狭く溢れ出て、

覆水盆に返らずという言葉も知らぬ内に忘れ、

必死に両手使って水を盆に返そうと慌てだす。

 

うまいこと、というと

必死に働いてる方々に語弊があるかもしれないが、

 

僕とその友人のように、やるべきことやらず、

やりたいことだけをやって、

これが楽しいんだ、楽なんだと、

俺にはこれしかないんじゃと高を括り、

何処かに理由をつけて休息だと、

酒ばかり呑んでは酔い、互いの持論をドヤ顔で、

ぶつけ合い、あたかも大人のツラしてきた属性。

 

ではない方々は、しっかり働き、もう新卒も終わり、ある程度のお仕事も落ち着きつつあり、貯蓄なんかもあって、車の免許も、ましてや車も持ってたり、いつからか付き合ってた彼女と、あら結婚したりしたわ!

などと、SNSなんかでガンガンに知り出す。

焦りはせんが、ほう、こんな歳になったかなどと、

平静を装ってみたりして、あら、ほとほと情けない。

 

25歳っていう言葉がもう重い。馬鹿が。

4分の1世紀とかいうと、もう手に負えない。

青年期終わり大人に突入する。ということに、

見て見ぬフリしてたフリも、もうできなくなる。

こりゃいかん、誠に遺憾。

 

感謝の意味は殆ど分かり始めていた、はず。

しかし、大切の意味とやり方が分からぬ。

心と体と脳のバランス、思考論理経験哲学も、

ぐっちゃぐっちゃになること多し。困惑。

死にたくなる日も増えた気がする。

いや、気のせい気のせい。眠りつく。起きる。

日々は続く。その中で、

 

●だけど、僕等は思い出す、きっと。

 

孤独なんて風景だ友達だ。

後ろを振り返れば、

歪ながらも、しっかり自分の足跡の残りもあり、

右をチラッと見てみれば人がおり、

左をふと見たら、酒酌み交わした友がいる。

またもや俯き下を向いていても、見慣れた風景。

 

案外、楽チンかも、と。

人って勝手に生きていくんだな。と。

 

そこで、生きたいと強く願う。

 

生きてきた自信よりも、

恋人を失った悲しみよりも、

 

生きていたい、死にたくない。

誰かを愛したい、誰かに愛されたい。

願望を実現させるべく、また走り出す。

 

向かうべき場所は死に場所ではない、

皆、ルートも走り方もスピードも違うが、

その前のキリのいい10年後、35歳だ。

 

俺らが大好きで、お世話になりまくってる世代の、

その人たちみたいになれてるか。だ。

 

その時に、酒を飲んで友と管を巻いたこと、

その当時、信じた恋愛や愛した人の横顔、

この瞬間に、死ぬほど、悩んだことを、

あのとき、ああだった。と

「何でもないソレを思い出せるか」だけなんだ。

 

悩めてることに、答えがわかり出す前に、

俺ら、今、頑張ってるフリでなく、

それぞれ頑張ってる。と頑張ろうぜ。と、

言えるかどうかだけだ。

 

文字にすれば単純だが、

そうもいかない。だから、生きてる。

答えなんか見つからない。それこそ死ぬ瞬間。

だから、生きる、生きたい、悩む、もがく。

もがき方から探す。人と会う。

 

人に会うのが怖い時とかある。

誰とも会えない、誰と会っていいか分からん。

風呂に入る前の気だるさと変わらない。

風呂に入って後悔することなんて、殆どない。

 

沢山の大人たちが与えてくれるキッカケを、

スタートの合図として、走り出す。

ペースも走り方もスピードも、

一切、人と比較するものではない。

それをする奴は俺は嫌う。

僕を囲んでくれる人達の中には先ず居ない。

 

●大丈夫だ、俺も友も。確信なんかないけど。

まだ25歳だもん。核心も知らないもん。

これからのこと知らないんだもん。

生きててよかったね、生きてるね。

生きていこうね。革新していこうね。

 

 

お誕生日おめでとう!

僕と友達になってくれて、ありがとう!

 

 

というか、なんか今、偶々、躁で爽な想なんで、

それ以外の人々にも幸多からんことを。

心より。

 

 

長文、駄文、ご拝読、ありがとうございました。

 

ああ、楽しかった。自己満足で終わるかな?笑

 

 

 

 

 

『孤独は景色で、一瞬。』

おはよう。調子はどうだい?

➖ 

21日は福岡四次元で

お世話になってる仁禮健太さんを

四次元から見送る会。

そして、昨夜、23日は鹿児島SR HALLで、

沢山の人達の協力を借りた、のではなく、

頂きまくってのレコ発ライブ。

 ➖

昨夜まで、ここ暫くの間、

心の何処か、ずっと気を張り詰めていた。

21日の福岡の打ち上げ抜けて、

会いたい人に会って酒を酌み交わした後の、

福岡の早朝での、帰りのバス内でも

薄っすら考えてたりしてたのだけれど。

昨日、ライブ終わって、

乾杯打ち上げ終わって、予想に反し、

みんなドンドン帰って行ってしまい、

打ち上がるつもりだった僕は、

やけに寂しくなり、一人で帰るのも不安になり、

SRに戻り、寿山さんとタツマと

珈琲飲みながら、夜を振り返ってた。

話聞いたり、聞いてくれたり。確認したり。

そして、金、日と、2つの夜に、

僕らが演奏してた時間の、あの瞬間の、

見てくれてた人達の表情や、

(恥ずかしいのでチラチラしか見れてない)

その人たちがくれた言葉を思い返していた。

諸々な理由で

ここ最近の僕の日々は、やけに冷静で、そんなに熱くなったり、悲しくなったり、泣いたり、怒ったり、テンションぶち上がったりが減っていた。

なのに、それらと反比例して、好きな彼女を泣かせたり、優しいメンバーを困らせたり、周囲の人に気を遣わせたり、二者択一ができなくなったり。そんな日々だった。

ほぼほぼ締め作業が終わったSR HALLに

話終わった後も、腰掛けさせてもらい、

ゆっくりと独りタバコを吸っていた。

 ➖

「あ。なるほどな。」と思った。

昨日のMCは、「ありがとう」と「感謝」という言葉を、本当に、多々、使っていたと思う。その言葉にはそれ以上も以下もないから。

本当にその言葉通りしか意味も理由も、

それしかないから。

 ➖

ついこの間までの僕と言えば、

元々、感情がガバガバで、

ガバオ君とアダ名がついてしまうぐらいの、

+100 〜 -100までの感情の起伏と、

付き合いながら、生活して、

それに人に付き合ってもらってたような

感覚だった。

 ➖

でも、最近の日々の中で心の動きは、

マイナスもすぎることもなければ、

プラスすぎることもない。

だから、なんか見失ってる気がしたり、

無くしてしまったものがあるような気がしていた。

 ➖

根拠のない自信は生きる上で本当に大切ですね。

それの逆で、

根拠のない不安は生きる上で最も怖いのですね。

そう思ってた。漠然と何かに怯えてた。

「素直と純粋」の意味とやり方が

分からなくなった。

分かってたし、できていたのに。

 ➖

でもね。昨日と福岡での

僕ら3人、その日暮らしのライブ。

先述した僕が忘れてたように感じていた、

その何かしらたちを、集めに行ったのか、

皆様の力で集まってきてたのかは分からないけど、

個人的に、それが僕の心と頭の中に明確にあった。

キラッと光っていた。まばゆく。

 

興奮でも不安でもない、

あの何とも言い難い独特な空間、

ライブハウスのステージの上で、

僕はそれと再会していたのだ。

「よう、久しぶり。」と握手していた様な。

煙草が消えかける瞬間に一旦、結論づけた。

 ➖

沢山の人がいる。

沢山の種類の人がいる。

良い感情も悪い感情も、大きさなんて、

他人と比較するものではない。

大も小も、その人達、それぞれ違う。

 

それが良いものなのか、悪いものなのか、

分からなくなったり不安になったり、

逆に、

確信めいてたり、教えてあげたかったりするから、人は人と出会い続け、恋をしたりされたり、先輩や後輩となったり、友達や親友となったり、

色んな関係(カテゴリ)が産まれていく。

その中で.

話し続け、たまには口論になり、

傷つけ傷つけられ、気付き、気付かされる。

 ➖

キッカケは、いつだって、近くにあるし、

誰かが持ってくれている。

自分たちの中にだって、絶対にある。

それに、いつ気付くかだけの問題。

分からないなら、出来ないなら、待てばいい。

誰か気付いてくれる。

そんな人が実はたくさんいる。

そんな場所が実はたくさんある。

己の心のフィルターを少し薄くするだけ。

 ➖

無理はし過ぎないように、

無理を無理と思わないことに、

できるだけ気を付けて。それに気付いて。

 ➖

きっと、大丈夫さ、僕も君も。

人が居るから。話が出来るし、

そんな街があるから。

 ➖

次は、きっと、僕は、

「大切 」という言葉の、本当の意味や、

やり方を知ることになるような気がしてる。

確実にくる。というか、取りに行く。

 ➖

僕の周りに居てくれる人達に、

心よりの感謝を込めて、今日は、

此処で一旦、筆を置きます。

 

読んでいただき、というか、

いつも、何かしら、

ありがとうございます。

 

これからも、よろしく。

f:id:s-seidai0509:20170424115431j:image

 

f:id:s-seidai0509:20170424115526j:image

 

f:id:s-seidai0509:20170424115546j:image

 

f:id:s-seidai0509:20170424115557j:image

 

f:id:s-seidai0509:20170424115624j:image

 

 

病抱えて、山に登ろう。そこで、お茶しよう。

やりたいようにやるのと、

純粋に愛したり楽しんだり信じたりするする力が、僕にはないのだと昨日、再認識した。

 

それは身を守るための自己嫌悪や不安や疑念によるバリアでした。

「間」と言うものが愛せず苦手で、だから喋り捲って、相手を追い込んでるのだと気付く。

 

だから、とりあえず相手を本気で信じたり、愛したり、思いやったりしてたら、気を遣うという概念も思考や論理もなく、純粋に相手の話をゆっくり聞いたり、普通に楽しめたり、疑ったりすることもなくなるだろうなと思いました。

 

完結した気がします。
後はこれを人の前で、できるのかな?って事ですが、それは意識し続けて生活してたら、無意識に習慣になる事でしょう。

 

僕等は、皆、似てるようで似てなくて、人間誰もが多分、理想とする場所や生き方や死に様はそんなに変わらないと思うのです。

 

ミンナ何かしらトラウマがあって、診察に行けば、何かしらの病気スタンプを貰えることでしょう。

だから、そんなにみんな変わらないはずなのに。

 

そこで感情や性格が作用して方向性が変わっていくのが人間で、それで喧嘩したり見直したり傷つけ傷つけられ気づき気づかされるのが人間関係です。

 

ここで文字にするのは容易いけど、やはり他人でも家族でも友達でも恋人でも、別の人間は別の人間だから、とても難しいし揉めるけれど、そこで何か見つかるから人は人と居続けるのでしょう。


孤独は風景で、友達で、一生のものではなく一瞬のものだと教わりました。鬱病になってから俺は時間が有り余ってる分、気付くことばかりです。

これが療養です。

 

そこの最終的に行き着く先は感謝です。

 

そして、昔より素直になり始めてます。

そんなもんだ。割り切る力も増えた。

から、僕は身近な人からとにかく大切にしたい。

全員は無理だから1人ずつ。してもらったからです。

隣にいる人から、まず。

 

それだけでいいのにね。

 

だから、珈琲を飲みに行こう。

週末の佳境。

 

SNSは刺激が強すぎるし、

雨や曇りの日は漠然と不安。

部屋で1人はやはり不安だし、

晴れてたとしても、

外に出るのも億劫だし、人ごみは怖い。

笑い声はうるさい。

なんやかんやあって、家にいる。

居るものの、家の蛍光灯は明るすぎる。

暗けりゃ落ち着くけど、寂しさは増す。

 

ミンナ大変だし、ミンナきっと何かしら病気だ。

けれど、ミンナなんでか、気付いてくれていて、

先日、先述した通り、

気取らない優しさ、気負わせない優しさをくれる。

素直に受け止めきれない自分が嫌い。

でも本当は暖かい。思い知ってる。

でも、何かしら言い訳を探してる。

 

だから彼女と一緒にした。

けど、こんな薬漬けの毎日、

慣れてきたからなのか、季節のせいなのか、

結局、眠れず、身体も心も疲弊して、

その疲弊は最も近い人に伝染する。

僕の疲弊が誰かの疲弊を産み、疲弊が合体し、

膨張して莫大な疲弊になり、誰かの涙になる。

僕は涙出ない。過去を振り返るばかり

今まで居てくれた人達のことを振り返る。

 

その人達の前で偉そうに、

論理や思想や哲学を披露して、

疲労してたことが急に馬鹿らしく情けなくなった。

いや、虚しいが相応しい表現か?

 

良くも悪くも、

変わったこと、変えれたことも少なからずと

僕の中にもあるだろう。逆も然り。

 

けれど、僕が人を傷つけているときの状況、発言、思考、論理、言葉尻は何も変わってなかったよ。

 

無意識の意識の中、

人のせいにして自己否定と言う枠の中の自己肯定で勝手に楽になってたのだろう。結果、大嫌いな母親と同じ始末だ。蛙の子は蛙か?やはり。そうじゃないと信じる他ないけど。儚いけど。

 

手遅れではないだろう。そんなことないだろう。

 

遅すぎることなんて何1つない。君も僕も間違ってない。終わらない。巡り巡って貴方と居るように混ざり混ざって真っ二つの道になり。とか、絶対なんかない、絶対に。とか、大事なことは大好きな先輩が、いつでも歌ってるんだよな。

 

それに甘んじることも乗っかることも今はできないけれど、近くの人だけでも大切にできたらと思ってた。できないから、考えた。分からなかった。

到底、行き着かないだろうとも思った今は。諦めないけど。考え過ぎて考えが及ばなかった。

 

躁とか鬱とかトラウマとかじゃない。

そんなの、みんな持ってる。

解決までも時間でもないと思う。

フィルター通した思いやりだと思う。知らんけど。

 

言葉に捉われすぎて、思考に囲まれて、

結果、大切なものに慣れて甘んじて、

見失っているんだろう。大切なものが何かすら漠然としてるのに。

 

まぁ今日は結局、一通り、何も分からないし、暫く答えも出ない問題なのだろう。

まだ登ってる山の高さも知らないし、

頂上なんて当然、見えない。

見たくもないまでもある。

 

休む?わかんない。何したい?わかんない。

何も考えたくないなってことを考えてる。

 

でも大切にできてなかったものは大切にしたい。

 

こんなとこで残す言葉なんて書けば書くほど薄っぺらくなっていくばかりだなぁと思うけど、まぁその内、自分で読み直して、何か気づけるように残しておくことにするよ、俺の場所だし。

 

どうか深く眠れますように。もう目がしばらく覚めませんように。気持も冷めませんように。

 

別に誰でもいいけど、

誰かが、どうかいい夜を過ごせますように。

 

おやすみなさい。

みんな明日から辛い5日間、耐え忍んでください。

それは純な感情です。

 

おやすみなさい。

幼少の果て、今。

 

爽やかな曲ができました。

病気?にも、なってみるもんですね。

 

 

「幼少の果て、今。」


「いつまでも、側に居て。」って、どれだけ子供なんだ。
今迄だって、ずっと誰かが、側に居たじゃないかよ。

「見栄を連れて、虚勢まで張って。」どれだけ子供なんだ。
それでも、ずっと、誰か、お前の側に居たじゃないか。

陰に居たって、陽に居たって、それほど変わらないよ。
それでも、ずっと、誰か、お前を照らしていたじゃないか。

歳だけとって、鬱に至って、また、まだ子供なんだ。
それさえ、歌に変えて、不思議と生きていくんだろう。


幼少の果て、今、大人になれたかい?
幼少の果て、まだ、子供のままかい?

どれ程、愛して。どれ程、愛され。
全てが決まる。全てが分かる。全てが変わる。
「全てが変わる。」

幼児還り。

 

 

だいぶ日が空いた。

酷い口臭と脇汗の匂いで目覚めた。

どんな導入薬が合うのか分からず変え続けているが

やはり眠りが浅い。その浅さと比例して、

悪夢を見る確率は高くなる。

 

この感情麻痺ミルフィーユの俺が

グワングワンと感情を客観的かつ他人事ながら、

揺らされた4月1日の水俣の1.5日間から約2週間経過しようとしている。それからの毎日は、あいもかわらず、

項垂れた日々の中、彼女の仕事からの帰りを待つだけの日々、そして、週末、彼女と何処かへ出かけるのを待望とする日々です。泣けなくなって、情けないな。

 

 

 

水俣は町も人も美しかった。

 

言葉そのまま。

純。だった。何もかも。

あそこを創り上げてきた人たち自身と、

その理由が、根から純であるからだろう。

 

鹿児島から共に行ったメンバーや先輩達は

とにかく自然な優しさを鹿児島に帰るまで

与え続けていた。気取らず、気負わせない優しさ。

 

あ、俺、鬱治ったんじゃね。と錯覚した。

水俣の皆様も先輩達もメンバーも本当にありがとうございました。

 

 

水俣から帰ってきてからは身体が動かず16時間ぐらい寝続けた。やはり、そんな感じかと自負。

 

 

とても優しい暖かい日々の中、

幼児還りのような感情になることが増えた。

思いやりのない、むしろ、責任感もない発言が増え、彼女を傷付ける回数が増えた。泣いていた。

ここまでしてもらってるのに、浅はかで安易な子供のような態度と発言。ただ拗ねてる。

振り返っても情けない。

 

 

雨と一人と自宅の相性が良くない。

また今週から病院と薬が変わる。

どうせ病名もまた変わる。そんなもんだ。

風邪が喉からなのか鼻からなのかぐらいの違いで、

遅かれ早かれかで、診断行くか行かないかの違い。

 

そう分かってるから自分を責めるが、

少しは開き直って休息したい。

そして、復帰したい。

少しずつ良くなってる。気がする。

 

 

 

雨ばかりだけど桜が咲いたし暖かくなってきた。

季節が移ろいでいくのは好きだ。君の服装が変わるのも楽しみだ。先は長い。

 

満身。

日付回って今日から、

水俣からやる新曲の歌詞です。

今しか書き切れない歌詞、曲だと思います。

こんなに歌詞を推敲したのは初めてでした。

 

 

満身


死ぬ為に生きている。
死んだように生きてみる。心情、畜生。
泣くために笑い合う。
笑ったように泣いている、君を。君と。

 

馴染みゆく現状、鳴り響く幻聴。
沈みゆく太陽、身に染みる体温。

 


いつか、消える日々と、信じて、
昨日の希望も、君の意味も、
信じたい。愛したい。話したい。離さない。

 


世界を許す俺を許す。
俺を許す世界を許す。

君を愛す俺を愛す。
俺を愛す君を愛している。

無邪気に。
無邪気に。

 


いつか、見える日々と、信じた。
清く笑う、君の隅で、 生きてこう。
見えぬ、未来を、見に行こう。
そして、キスしよう。キスしよう。
キスしよう。