島崎清大「ただ、生活。」

その日暮らしGt.Vo.島崎清大の日記。的な。文学かぶれ。

幼児還り。

 

 

だいぶ日が空いた。

酷い口臭と脇汗の匂いで目覚めた。

どんな導入薬が合うのか分からず変え続けているが

やはり眠りが浅い。その浅さと比例して、

悪夢を見る確率は高くなる。

 

この感情麻痺ミルフィーユの俺が

グワングワンと感情を客観的かつ他人事ながら、

揺らされた4月1日の水俣の1.5日間から約2週間経過しようとしている。それからの毎日は、あいもかわらず、

項垂れた日々の中、彼女の仕事からの帰りを待つだけの日々、そして、週末、彼女と何処かへ出かけるのを待望とする日々です。泣けなくなって、情けないな。

 

 

 

水俣は町も人も美しかった。

 

言葉そのまま。

純。だった。何もかも。

あそこを創り上げてきた人たち自身と、

その理由が、根から純であるからだろう。

 

鹿児島から共に行ったメンバーや先輩達は

とにかく自然な優しさを鹿児島に帰るまで

与え続けていた。気取らず、気負わせない優しさ。

 

あ、俺、鬱治ったんじゃね。と錯覚した。

水俣の皆様も先輩達もメンバーも本当にありがとうございました。

 

 

水俣から帰ってきてからは身体が動かず16時間ぐらい寝続けた。やはり、そんな感じかと自負。

 

 

とても優しい暖かい日々の中、

幼児還りのような感情になることが増えた。

思いやりのない、むしろ、責任感もない発言が増え、彼女を傷付ける回数が増えた。泣いていた。

ここまでしてもらってるのに、浅はかで安易な子供のような態度と発言。ただ拗ねてる。

振り返っても情けない。

 

 

雨と一人と自宅の相性が良くない。

また今週から病院と薬が変わる。

どうせ病名もまた変わる。そんなもんだ。

風邪が喉からなのか鼻からなのかぐらいの違いで、

遅かれ早かれかで、診断行くか行かないかの違い。

 

そう分かってるから自分を責めるが、

少しは開き直って休息したい。

そして、復帰したい。

少しずつ良くなってる。気がする。

 

 

 

雨ばかりだけど桜が咲いたし暖かくなってきた。

季節が移ろいでいくのは好きだ。君の服装が変わるのも楽しみだ。先は長い。

 

満身。

日付回って今日から、

水俣からやる新曲の歌詞です。

今しか書き切れない歌詞、曲だと思います。

こんなに歌詞を推敲したのは初めてでした。

 

 

満身


死ぬ為に生きている。
死んだように生きてみる。心情、畜生。
泣くために笑い合う。
笑ったように泣いている、君を。君と。

 

馴染みゆく現状、鳴り響く幻聴。
沈みゆく太陽、身に染みる体温。

 


いつか、消える日々と、信じて、
昨日の希望も、君の意味も、
信じたい。愛したい。話したい。離さない。

 


世界を許す俺を許す。
俺を許す世界を許す。

君を愛す俺を愛す。
俺を愛す君を愛している。

無邪気に。
無邪気に。

 


いつか、見える日々と、信じた。
清く笑う、君の隅で、 生きてこう。
見えぬ、未来を、見に行こう。
そして、キスしよう。キスしよう。
キスしよう。

先程の話。先日の夜中の話。

 

最近の朝は、

仕事に行く彼女に合わせて起き、

僕はそこから自分ちに帰る。

 

調子が良ければ、何かしらの行動を起こし、

外を出歩いたり、勉強したりする。

 

調子が良くなければ、

帰宅後、そのまま床に倒れ込んで、

すぐさま寝る。そして、寝続ける。

 

今日は中途半端な気持ちだったので、

コンビニで野菜ジュースだけを買い、

それをもう食事とし薬を飲み、

いつも通り、腹を下し、すぐさま寝た。

 

こんな毎日だからか、

「俺は今、夏休みの中に存在してる」という夢を見た。

とても不思議な心地が襲って来ていた。

「あ、やべ、宿題しなきゃ。」という漫画にも使われないぐらいベタな。自分の寝言で目覚めた。涎は垂れまくっている。僕は寝起きの朦朧とした意識の中、

 

「あれ、夏休みだっけ?何休みだっけ?いや、違う。じゃあ、宿題ってなんだ。読書感想文と漢字ドリルを命じられてた気がする。漢字ドリルを鞄から出さな。え、でも、やり残したことあったか。というか俺は何に追われてるんだ。いつまで夏休みだっけ。宿題しなきゃ。って俺は今までの長期休みの宿題なんて出したことはなかったぞ。何を言ってるんだ。何に追われてるんだ。おい、ここはどこだ。今は、いつだ。」

 

と、脳内か心でか、分からぬが、

ガーガーしてるうちに、また眠っていた。

そして、先ほど、起きた。

 

なんだか、今の自分の状況からすると、とても腑に落ちる夢だったので、記しておいただけ。

 

話は変わるようで変わらないし

変わらないようで変わるが、

 

深夜、寝る前に思い出す、幼少時の毎週土曜の夜の話。とても悲しい思いをする曜日だった。

クスリばかり飲んでるので、安定に安定を重ね、心の麻痺ミルフィーユ状態の俺から、簡単に涙なんかは出ないけれど、心の奥底、やはり、えげつないぐらい悲しくなる。

 

けれど、なんか、ふと気づいた。俺はこのまま生きていけば、最近、僕を囲む人達といれば、もうあの時のような悲しみはやってこないだろう。いや、決して、やってこない。確実だ。

終わったのだ、もう、僕が囚われていた数々の悲しみは終わったのだ。と、安堵したのだ。

 

僕はすぐ隣で寝ていた彼女にそれを伝えた。彼女は寝ぼけながらも、

 

「その通りよ。あなたの個性が繋いだ人達なのよ。貴方は人一倍、人に感謝できる人生だったわ。それが良かったのか悪かったのかは分からないけれど。その人達は今の貴方といる。だから、大丈夫よ。もう大丈夫。」

 

と言い、少しの力で僕を抱きしめてくれた後、寝息を立てながら眠り出した。僕は安堵と同時に、その裏の不安まで予測してしまうので、暫く悶々とした後、眠りに落ちた。

 

しかし、次の日の朝、少し心は軽かった。これが、療養か。と思った。

 

 

夢のような日々なのか

日々のような夢なのか。

 

 

心の麻痺ミルフィーユも悪くない。

 

振り返った昨日は、もう、忘れようぜ。

音楽が最終的に自分の為ならば、

人から飽きられる恐怖や、

忘れ去られる不安など無くていいのに。

 

こんなことを考えてる時点で、

行き着く所は結局、独りよがり、

自分って所になってしまう。

 

でも、僕が音楽を発散する上で、

確実に、人を介してしまうから、

それは自分の為だけでなくなってしまう。

 

そこに何かしらの影響力があるか、

僕に似たような奴が似たような気持ちで、

そいつが言葉には出来なかったモノを、

僕には、たまたま、持ってたものだったりとか。

そんなのか。思考や論理か?情熱か?

 

「そんなことは考えなくていいんだよ。

楽にやろうぜ、ロックンロール。」

 

なんてのは、それは、お前のやり方だ。

 

俺のやり方は、こう、今も、何もわからず、

答えも出そうにないことを、延々と考えて、

病名までつけられて、明日を待つ喜びを

知って行くこと自体が、君達の言う、

ロックンロールとやらに近いのではないかね。

 

僕はきっと幼子のように戻ってる。

幼子の記憶辿ると悲しい思い出しか、思い出せなくなってる。だから、忘れていってる。

だから、拾い集めに行こうとしてる。作ろうとしてる。その想像と、現状が、うまいこと釣り合わないから、堕ちていくわけだけど。

 

人と会う約束がないと怖い。

けれど、誰とでも会えそうもない。

人混みにいると、甲高い声を聞くと、

発狂しそうになる。意識飛ぶ。

君と抱き合いながら眠る想像をして、

その時間だけを待つような状態の生活。

 

そんなしてるうちに、

 またライブがやってくる。

色んな恐怖はあるのだけれど、

好きな人たちが、存分のエネルギーを使い

作り上げようとしてる場所や時間に、

こんな状態の僕が立っていいものだろうか、

なんて何様でもないくせナルシズムの骨頂のような不安を抱えている。けれど、

 

 

馬鹿みたいに人に望んで、

自分の言葉、歌詞だけには自信を持って、

とりあえず隣にいるメンバーを信じて、

やる。それだけなんだけど。

 

とりあえず、俺はやる、だけ。とか、そんなクソみたいなアホのような未熟者のような程度ではない。という言い訳みたいな文章。なんか他に言葉は見つからないし忌々しく恥ずかしいな。

 

支離滅裂だ。まぁいいや、また書こう。

ありがとう。

 

夕日が沈む川とオレンジトレイン。

 

療養と言う名のを空白の期間を過ごしている。

その中で、今まで知らなかった世の形態や、

見て見ぬ振りしてきた、社会の常識を、

教えていただく日々。人の優しさに触れている。

 

療養とは言え、何もせぬ、この日々と、

少しずつ落ち着いて行くメンタルと、

麻痺して行く脳の片隅には、違和感を覚える。

 

普通の人が普通に歩く。

俺も普通を手にする為に此処にいるのだろうか。

 

けれど、彼女は言う。

今はそれでいい。今はそれは要らないよ。と。

 

少しだけ安心しているのか、また見て見ぬ振りするのかは分からないが、僕は明日も彼女も求めてるから従う。人と隣で眠れる日々の大事さと、起きる瞬間の愛おしさを約25年間で最大に感じている。

 

僕が好きな人たちは、

僕に、最後は、死ぬなよ。生きろよ。と言ってくれる。それだけで僕は笑顔でいれる。

 

珈琲と煙草と何でもない映画と

少しの勉強と、ドラゴンクエストと、

彼女と、気取らない優しい人達。

 

心の片隅の不安というシコリを常に感じてはいるけど、約束や会話の中で少しずつ縮小していく日々である。僕はまだまだ生きていけるだろうか。未来は現在になるだろうか。

 

一先ず、ありがとう。

今日も眠れた。

 

精神性や哲学や思考よりも

今は分かりやすい優しさと感情と

目に見えぬ暖かい色を探してる。求めてる。

僕も何か与えれたら。

 

税金と年金と保険料と人々による人々の為の生活。

 

何にも気付かぬまま、

全てが巻き起こって、

全てに飲み込まれて、

死ぬことにならずに本当に良かった。

つまるところ、今、生きててよかった。

何も解決してないけど、不安は1つ消えかけてる。

 

人の大切さを改めて思い知ることになる。

それと同時に未来の自分に対する不安が膨張。

しかしながら、もっと純なもので語り合えてる

現実だけでいいや。それ以外、考えても辿り着く場所は一緒だし。

 

 

 

今日は何もできなかった。夜が来る。怖い。

誰かと会いたいけど

誰と会っていいか分からない。

誕生日サプライズ理論。

 

人々の人並みの、感動や感傷が、

如何程のモノなのか一も分からないどころか、

然程、興味もないのだけれど、

先日、記述した通り、俄然、他人事になっていく

世間や、その周りの人々。

 

その中で誰かの何かに感動したり、

敢えて取りに行った芸術の諸々を受け入れたり、

大層、好きだったアーティストを観たりしても、

どうにも感動も感傷もイマイチ持てない。

 

が、人と会い、会話をしたら、自然と不覚にも、

感情は弾むし、堕ちて行ってた心を拾い上げられる。

 

その中で、その人の言葉1つに感動はしないけれど、その人自身が、僕に対して真意に向きあってくれてる現実や、その言葉を発しようとしてくれた過程に僕は感動してることに気づいた。一通りあった昨夜に結論した。

 

例えば、僕は明日、誕生日。知人達から飲みに誘われ、その瞬間、僕は打算的にもサプライズか何かしらで祝われることだろうと期待する。その飲み会始まり、おっちょこちょいな奴が、俺にサプライズを悟られたとする。そこで俺はそれに気付かぬふりをして場は進行されていく。いよいよ、念願?のサプライズタイムがやってきていた。そこで俺は何を言うか、何を思うかはわからないけれど、もしかしたら、驚いたふりだってするかもしれない。が、そんなものはもう、どうだっていいのだ。サプライズが行われてることもバレたあいつの馬鹿さだってどうでもいいのだ。

 

何故か。

それはもう過程である。

 

その知人らが時間と金を使い場を設け、俺1人の為に画策したその過程が何よりものプレゼントなのだと思う。

 

彼女が作ってきてくれた弁当自体の美味しさや、メンバーが頭捻って作ってきたフレーズの巧妙さや、童貞が初デートに着てきた服装のダサさ、そんなものは少しだけどうでもいいのだ。

 

一番、愛すべき場所は、きっと、そいつが、それに向き合っていた時間なのだと思う。

 

薬のせいなのか鬱のせいなのか分からないが、

より不感症になっていく心情の中で、僕は人に感動したし、人を愛した。より愛そう、寄り合いをしようと思った。そんな昨日だった。

 

チャットモンチーを見た感動より

チャットモンチーを見て感動してる君を見て感動したんだ、俺は。